礼拝
友納靖史
常盤台バプテスト教会 2026.8.9 主日礼拝 ヨハネ福音書講解(51)「エッケ・ホモ:この人を見よ」友納靖史牧師【ヨハネによる福音書 18章38~19章16節】(新共同訳 新約P.206~207)
- 音声メッセージ
礼拝終了後掲載いたします。通信料が心配な方はこちらからご視聴ください。- 礼拝プログラム
- 前奏
招詞 イザヤ書 2章2~5節 司式者
祈祷 司式者
賛美 新生326番「ガリラヤの風」
主の祈り
献金感謝
聖書 ヨハネによる福音書 18章38~19章16節
特別賛美 ”平和の祈り”
宣教 ヨハネ福音書講解(51)「エッケ・ホモ:この人を見よ」 友納靖史牧師
祈祷
賛美 新生205番「まぶねの中に」
頌栄 新生672番「ものみなたたえよ(B)」
祝祷
後奏 - 宣教概要
- ラテン語で「エッケ・ホモ(この人を見よ)」と題する絵画は、世界中で数多く描かれてきました。ジャック・カロ(フランス、1592–1635)の作品は国立西洋美術館にも所蔵されています。そこには、ローマ総督ピラトによって裁かれ、紫の衣をまとわされ、茨の冠をかぶせられ、血を流す主イエスが群衆の前に引き出される、今日の聖書箇所の場面が描かれています。
18章28節以降、ピラトはイエスとの対話を通して、「この人には何の罪も見いだせない」(ヨハ18:38)と確信するようになりました。そのためヨハネは、彼が何度もイエスを助けようとしたことを詳しく記しています。しかし結局、ピラトは真理よりも自らの地位を守ることを選び、歴史に汚名を残しました。一方で福音書は、イエスを十字架につけた責任はピラト一人ではなく、イエスを妬んだ宗教指導者たち、そして扇動された群衆にもあったことを明らかにしています。マタイ27章23~25節には、群衆が「十字架につけろ」と叫び続け、暴動寸前となる中、ピラトが最後まで「いったいどんな悪事を働いたというのか」と問いかけたことが記されています。しかし群衆は耳を貸さず、ピラトは手を洗って「この人の血について、私には責任がない」と責任を群衆に転嫁しました。
使徒信条には、「…ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ…」と告白されています。私たちバプテスト教会もその信仰内容を尊重していますが、礼拝で信条として唱えない理由の一つは、主の十字架の責任をピラト一人に帰することはできないと考えるからです。もしその場にいたなら、宗教指導者や群衆、そしてピラトと同じ罪を犯していたであろう罪人である私――そのような悔い改めの信仰告白に私たちは立っています。
また、「その血の責任は、われわれと子孫にある」(マタ27:25)という群衆の言葉が誤って用いられ、「ユダヤ人がイエスを殺した」とする迫害の根拠とされてきた悲しい歴史からも、教会は目を背けてはなりません。聖なる神の前に、すべての者が罪人です。その私たちを愛し、十字架によってその罪を贖い、赦してくださったことこそこそが福音であり、そして真理です。
ピラトが「エッケ・ホモ(この人を見よ)」と叫んだのは、主イエスの痛ましい姿によって群衆の良心に訴え、誤った判断を思いとどまらせようとしたからでした。画家ジャック・カロは、三十年戦争の悲惨さを描いた版画集『戦争の惨禍』や、日本二十六聖人殉教の作品も残しています。その作品には、「二度と同じ過ちを繰り返してはならない」という切実な願いが込められているように思われます。
戦争の惨禍から81年目を迎え、今日、私たちは長崎原爆の日を覚え礼拝をささげます。被爆者をはじめ、戦争の傷を負って歩まれる方々が自らの傷を見せて、「二度と同じ過ちを繰り返してはならない」と訴え続ける姿に目を注ぎましょう。そして何よりも、主イエスの受難と十字架の道の先に備えられた救いと平和の偉大な計画に信仰の目を注ぎ、平和と救いの福音を語り継ぐ使命を新たにさせて頂きましょう。
私たちに代り苦しみを担われた主イエスが、すべての傷を癒やされ、その驚くべき愛が世界中の教会と礼拝から豊かにあふれ出ることを信じ祈ります。昔も、今も、そして永久に…。
(ヘブライ4:15-16)